団地の造成と道路整備

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戦後から昭和三十年代の長野市の住宅難は深刻で、その解消は市長の重点公約であった。同三十五年の市の試算では、三万世帯中約四千世帯が住宅難とされた。同二十五年柳町に県営住宅の造成が始まり、市内では最初の公営住宅の建設となった。同二十八年から市営の柳町・宇木・返目(そりめ)団地が次々と造成された。公営住宅のみでなく、一般民間企業の社宅・寮、それに個人の賃貸住宅、また、各種の分譲住宅も造成建築された。同三十年、長野市内に公営住宅四三三戸、民間・諸官庁三五四戸が建設され、翌三十一年には公営住宅三九六戸、民間・諸官庁四〇七戸が建設された。市内では、年間八〇〇戸の割合で住宅団地の造成・建築が進んだ。その大部分が三輪地区に集中した。市は、同三十四年三輪・吉田の新住宅街へのガス供給のため、城東に高圧ガスホールダーを建設した。水道も同二十九年には、野尻湖からの水源で若槻に蚊里田(かりた)浄水場を開設し、上宇木地区方面に供給することにした。三輪は犀川から取水した夏目ヶ原浄水場から、上松は戸隠からの水源を往生地浄水場でそれぞれ浄水し、住宅増に対応した。「三輪たんぼ」で知られた三輪南部は同三十年代には、水田地帯としての姿を消し住宅地になった。同三十七年から上松東団地の造成が開始され、同四十年に完了した。同団地の入居者は一七六戸で、三輪地区では最大規模の団地となった。同四十六年から五十一年にかけて返目団地が拡大され、地区内第二の規模の団地となった。

 人口動態をみると、三輪地区の人口は昭和四十五年一万七一六一人であったが、同五十四年には一万九四〇五人となり、二二四四人の増加となった。したがって人口密度も高まった。地区の一ヘクタール当たりの人口は四十五年は六五人で、市内第三地区の九七人についで第二位であったが、五十四年には七四人となり市内では第一位になった。ちなみに同年の市内総平均は八人であった。

 昭和二十七年信越放送局が開設され、通称SBC通りが地区北部を東西に結ぶ道路として開設された。同五十七年に拡張・舗装工事が一〇ヵ年をかけて完了した。同三十年代に横山から長野北高線の新設工事が開始され、同五十八年には長野駅から長野大通りとして完成した。また、一九九八年長野冬季オリンピックのボブスレー・リュージュ会場が飯綱高原に決定したことや、上松地区への公営住宅の増設や一般住宅の増加にともなって浅川までの道路が平成九年に整備完了した。昭和三十七年には、柳町から三輪の東西の中央を南北に結ぶ三輪幹線道路が、SBC通りに通じた。地区内の道路は北部と南部では多少の相違はあるが、基本的には古代条里制の地割りや堰(せぎ)の流路に沿っている。


写真13 完成した長野大通り