行政区画の分合

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吉田地区は、江戸時代には、全部の村が松代藩領たった。明治四年(一八七一)廃藩置県当時は、吉田・押鐘(おしかね)・桐原(きりはら)・中越(なかごえ)・太田(もと下越(しもごえ))の五ヵ村に分かれていた。同五年の戸籍区の改正で、太田村は第五三区、吉田・押鐘・桐原・中越の四ヵ村は第五四区となった。同七年には大・小区制が施行され、五ヵ村は北第二二大区第六小区となり、村会所、小区扱い所を信行寺(しんぎょうじ)に置いた。小区長一人、筆生といわれる書記二人で、事務は吉田村の地図の保管、賦税金の取り扱い、各個人の印章の保管、太政官(だじょうかん)(当時の内閣)布達、県令の布達などだった。同九年五月三十日に、吉田・押鐘・中越・太田の四ヵ村が合併して吉田村となり、同時に桐原村は﨤目(そりめ)村に合併して古野村となった。同十二年一月「郡区町村編制法」の施行により、大・小区制が廃止され、県下に一六郡が設置された。吉田地区は、上水内郡に編入された。同十四年十月二十日、吉田村から中越村・太田村が分かれ三ヵ村となった。旧北国街道沿いの吉田・押鐘は商業を主としているのに対し、旧中越・太田の両組は農業を主体としており、干害による争いなど、合併以来弊害が生じていた。そのため同年八月八日、吉田・押鐘・中越・太田の各組の総代・戸長の連署をもって、吉田村から中越・太田の二組を分離したい旨を願いでた。この分離は、願い出どおりに県が認め、吉田村は吉田村、中越村は分離して三輪村に合併、太田村は独立して太田村となった。