吉田地区の戸口は、明治はじめから昭和十年(一九三五)ごろまでは緩やかな増え方であり、当時長野市近郊の農村として大きな変化はみられなかった。太平洋戦争のあとに増加が始まり、昭和二十三年東町に県営住宅ができたのが、吉田地区の団地の初めである。同二十五年に、広町・屋敷田耕地に県営・市営住宅ができ、同三十二年には二三五戸となり、同年「広町」が誕生した。同三十年代ころから、吉田地区の市街化が進んだ。同三十三年に「西堀町」が誕生し、同四十七年鍋屋地区に白菊団地が、同四十八年太田地区に芙蓉苑(ふようえん)団地が誕生した。吉田地区の人口が一万人を突破したのは同三十五年で、これは大正十一年(一九二二)(長野市合併の前年)の約三・七倍、平成八年度(一九九六)は同じく約六・一倍である。現在は長野市街地につづく住宅・商業用地などとして発展している(表1)。
昭和四十四年には、吉田小学校のマンモス校解消のため、湯谷小学校の開校にともない、通学区の変更がおこなわれ、押鐘(おしかね)・広町(ひろまち)の児童は湯谷小学校に移っていった。