平安時代の中ごろに見える牧名である。『北山抄』の応和(おうわ)元年(九六一)十一月四日の条に、「桐原駒廿疋(きりはらこまにじゅうひき)を召す。後院牧御馬」とあり、桐原牧は後院領として、駒二〇匹を献上している。この桐原牧については、現在の松本市入山辺(いりやまべ)桐原をこれにあてる説もあるが、当桐原地区は、一二世紀末には隣接地の吉田に吉田牧ができており、近くに宇木・駒沢集落があり、また現長野市古野の字桐原に牧野という字名があり、桐原牧はここにあったらしい。のちに、文明(ぶんめい)三年(一四七一)当時、島津忠国領であった。