再び吉田名が見えるのは、「高梨文書」である。明徳(めいとく)三年(一三九二)三月の「高梨朝高言上状(ごんじょう)案」に「小井(こい)郷吉田村」と見え、当地は高梨与一の知行地で幕府に安堵(あんど)が申請されている。吉田はかつて芋井郷に属していたが、中世になるといくつにも分かれて新しい郷が生まれたらしい。『諏訪御符礼(すわみふれ)之古書』によると、応仁(おうにん)二年(一四六八)花会(はなのえ)に「桐原・宇岐(うき)(宇木)・小鹿野(おじかの)・吉田・長嶋」とあり、桐原・宇岐・小鹿野(のちに押鐘(おしかね))・吉田・長嶋の五ヵ村が、諏訪社花会の祭りに頭役を交替でつとめたことがわかる。五ヵ村が交替で頭役をつとめたのは、郷村が成立していた証しである。信濃の村のなかでもいちばん初めに「郷村」が成立している例である。地頭として大須賀貞種・原善胡などがいた。明徳の文書から約八十年後であるが、小井郷の範囲はこの程度だったのではなかろうか。