天正九年の『信濃国道者之御祓(おはらい)くばり日記』に、「かつらやま分」として、「よし田のまち藤左衛門・同新四郎」が記されており、当地は戦国時代すでに「町」であって、葛山(かつらやま)城の支配下にあった。
島津文書によると、同十年本能寺の変ののち、当地は上杉景勝の支配下となり、同年七月十三日景勝は島津忠直に当地の五〇貫文の地をあてがっている。
吉田町
天正九年の『信濃国道者之御祓(おはらい)くばり日記』に、「かつらやま分」として、「よし田のまち藤左衛門・同新四郎」が記されており、当地は戦国時代すでに「町」であって、葛山(かつらやま)城の支配下にあった。
島津文書によると、同十年本能寺の変ののち、当地は上杉景勝の支配下となり、同年七月十三日景勝は島津忠直に当地の五〇貫文の地をあてがっている。