押鐘城跡

323 ~ 324

吉田字本城。大永(だいえい)年間(一五二一~二八)から摂津源氏出身の従四位下、多田四郎宮内大輔盛邦と嫡男多田筑後守盛重が居城したと伝えられる。村上義清の旗下となり、地名の「小鹿野」を名乗り天文(てんぶん)十九年(一五五〇)の砥石合戦の折、陣鐘を激しく鳴らして押しだし、武田軍を破り大功をたて姓を「押鐘(おしかね)」に改めたという。これが地名ともなった。

 館跡は条里水田のなかにあり、昭和六十二年(一九八七)までは本丸跡と見られる土塁(東西一八メートル、南北五〇メートル、高さ六メートル)と内堀の一部が残されていたが宅地化され、今ではその面影はまったくなく、城跡には、八十二銀行の宿舎が建てられている。


写真3 押鐘城跡(『吉田小学校百年史』より)