桐原居館跡

324 ~ 324

桐原(きりはら)組牧野耕地。室町期~戦国期。郭跡(くるわあと)は回字形をしていて、北東隅が乙字形に削られており、鬼門を削ったらしい。東西三二間(五八・二メートル)、南北四二間(七六・四メートル)。応永(おうえい)十一年(一四〇四)幕府の信濃国守護代官細川慈忠が、反抗する高梨朝秀を討ち、桐原・若槻・芋川の諸城をおとした(「市河文書」)。当時桐原は高梨氏の勢力の範囲だったらしい。古地図に高野刑部少(ぎょうぶのしょう)輔屋敷跡と書かれている。現在、桐原牧神社の東側の地帯は「雲山銘醸株式会社」になっており、桑やりんごの畑は宅地化した。昭和三十年(一九五五)ごろまでは土盛りされた居館跡は一段と高く、周りには一メートルぐらい低い半円形を描いたような「ホリ田」と呼ばれる部分があった。

 この堀で囲まれた要害跡(九四〇番地)から、昭和十三年に鎌倉期の兜観音(かぶとかんのん)(聖観音)と善光寺仏脇侍(わきじ)が発見された。