一 神社

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 万刀美(まとみ)神社 押鐘(おしかね) ①祭神 健御名方命(たけみなかたのみこと)・馬背神(ませのかみ) ②由緒 桐原牧(きりはらまき)の牧官(牧場の管理者)が奉斎したという。盛伝寺の北方宮田地籍から、浅川の洪水のため、寛文(かんぶん)六年(一六六六)現在地に遷座した。小鹿野、後世押鐘村の産土神(うぶすながみ)。文政(ぶんせい)十二年(一八二九)に社殿を再建した。初めは諏訪(すわ)大明神と称し、弘化(こうか)四年(一八四七)現社号に改めた。鳥居の北側には明和(めいわ)四年(一七六七)銘の長野旧市内の神社で最古の石灯籠(どうろう)がある。春祭り五月一日。秋祭り九月二十五日。

 桐原牧神社 桐原 ①祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・大宜都姫命(おげつひめのみこと) ②由緒平安時代に「桐原牧」のあったところで、良馬を京の都へ献上したといい、馬と水の守護神を祀(まつ)る。今も毎年三月八日の春祭りには藁(わら)馬を神前に捧げ、豊作を祈願する神事がおこなわれている。藁馬は参拝の人びとにくじ引きであたる。明和三年松代城主真田氏が高一石の社領を寄進した。かつては弁天宮と称したが、文政十一年現社号に改めた。弘化四年善光寺大地震で折れた石鳥居の一本が、清林寺の東側にある弁天社の脇に接する秋葉社を載せて祀った柱になっている。秋祭り九月三十日。

 皇足穂吉田大御神宮(おおみかみのぐう) 上町 ①祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)、相殿(あいでん)に保食神(うけもちのかみ) ②由緒 延長(えんちょう)五年(九二七)成立の『延喜式(えんぎしき)』神名帳(じんみょうちょう)にみられる水内(みのち)郡九社中の一つ「皇足穂宮(すめたるほぐう)」で式内社といわれている。豊受(とようけ)皇大神・北野天満宮・秋葉山本宮・大物主神(おおものぬしのかみ)・大己貴神(おおなむち)(土地の神)などが合祀(ごうし)されている。もとは神明宮、または庄の宮と称したが、文政二年現社号に改めた。浅川の洪水のため、正保(しょうほう)年間(一六四四~四八)庄の宮地籍小町の大イチョウの近くから現在地に遷座した。その折、鍋屋地区は農業をつづけるために現在地に移住した。今も祭典係の先頭に立っている。弘化四年善光寺大地震で社殿が崩壊し、嘉永(かえい)五年(一八五二)に現社殿を建立した。社殿正面の彫刻は現高山村の彫刻師、二代目亀原和太郎のものである。鳥居の額は松代藩主真田幸教(ゆきのり)が寄進した。境内には日本全国六八州の「一の宮」の石の祠(ほこら)がある。明治四十年代の小社統合令により各町の鎮守社・秋葉社などが合祀されている。春祭りの五月八日には、祈年祭、五月十五日には、慰霊祭をおこない、秋祭りの九月二十五日には神楽(かぐら)の奉納、神輿(みこし)、夜店が多く出てにぎわう。


写真5 皇足穂吉田大御神宮

 芋井森中古衣(いもいのもりなかごえ)神社 中越(なかごえ) ①祭神 健御名方命 ②由緒 芋井の森と呼ばれていたという。天正(てんしょう)八年(一五八〇)武田晴信の臣、関越前守が神領一貫五〇〇文を寄進した。慶長(けいちょう)年中(一五九六~一六一五)に宮下政房が屋敷の北側から南の方へ移し再建した。初めは諏訪(すわ)大明神と称したが、文政八年現社号に改めた。弘化四年善光寺大地震で社殿がすべて倒壊し、翌年当村の宮大工田村長三郎が再建した。拝殿屋根には千鳥破風がつき、拝殿正面の唐獅子(からじし)の彫刻などは二代立川流和四郎作である。当社の御柱祭は諏訪大社にならいおこなわれている。春祭り五月一日。秋祭り十月一日。

 弥栄(やさか)神社 太田 ①祭神 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)・櫛名田姫命(くしなだひめのみこと)・健御名方命・八坂斗売命(やさかとめのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと) ②由緒 もと天王社と称したが、文化(ぶんか)八年(一八一一)現社号に改めた。建長(けんちょう)元年(一二四九)に社殿を再建したという。天正八年武田の家臣、関越前守が祭祀(さいし)料として社領一貫三〇〇文を寄進し、慶安(けいあん)五年(承応元・一六五二)には神鏡を献納した。当社の御柱祭は諏訪社にならいおこなわれている。春祭り五月五日。秋祭り十月第二日曜日。

 養輝(ようこう)神社 上町 ③由緒 養蚕の神を祀った。明治五年造立。かつて養蚕の盛んなころには五月八日の春祭りはにぎわった。