村の暮らし

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旧北国(ほっこく)街道のいまの道筋は慶長(けいちょう)年間(一五九六~一六一五)に決まり、参勤交代、物資の交流、善光寺詣(もうで)などで吉田は活気づき、町割りができ、北本町・本町・横町・田町・上町・押鐘と、家が櫛(くし)の歯のようにつづいていた。丸山重作の労作『吉田地籍図』によると、吉田村の宅地一六五筆のうち、一二八筆は北国街道沿い、一三筆は布野(ふの)の渡(わたし)・長沼往来道で、道路に面した家は全体の八五パーセント。間口は八間(一四・五メートル)のもの四一パーセント、七間(一二・七メートル)一七パーセント、一〇間(一八・二メートル)一五パーセントで、慶長ごろの町割りの多くは七間割りが多く、間口はやや広い。横町と田町の境には口留(くちどめ)番所ができ、本町あたりから農商兼業が増えたのだろう。

 吉田田町の口留番所は初代松代藩主真田信之が、寛永(かんえい)二年(一六二五)ごろ、領内二〇ヵ所に設置したものの一つである。吉田は北国街道が飯山道および長沼道と布野の渡を経て須坂へいたるなど、松代領から他領へ通じる諸道の分岐するところであり、善光寺町への関門にあたるため、往来する旅人の「人改め」や「商荷改め」をおこなった。番所役人は代々加茂家が受けつぎ、廃藩置県により廃止された明治四年(一八七一)までつづいた。番所役人が用心鉄砲を所持していたことが、人別帳に記録されている。明治政府となり警察制度が確立し、各要地に巡査駐在所が置かれた。吉田の駐在所が大正十二年(一九二三)に、現在地の大イチョウの西隣に移転されるまでこの地にあった。


写真6 道標 吉田は諸道の分岐するところであった

 押鐘村の文久(ぶんきゅう)四年(元治元・一八六四)「軒別人別御改御書上帳」によると、押鐘村の戸数三四戸の五人組区分は一二戸・一〇戸・八戸・四戸(社寺)で、当初は近隣五人ぐらいで始まったが、長い間に五人組の人数がふえていった例である。押鐘村石高合計は一九九石余、一〇石ほどの持高農で、はじめ自家用食料が確保できたという。村人たちは、名主・組頭・長(おさ)百姓、五人組の連帯責任の規制のなかで生活した。

 吉田村の文久四年の「諸職人御書上下帳」によると、大工一一(人)、同半役四・左官七・仕事師二・鳶(とび)師一・畳刺師二、同半役二・塗師二・屋根葺(ふき)二・杣(そま)一・石工一・下駄(げた)師三、同半役一・棒師三、合計四二とある。吉田は職業の多様化が進み、在郷の村々にとって、いろいろな用事の足りる便利な存在となっていった。

 田町組の「職業調べ」は吉田村の田町組内全戸六九人の職業調べを役元へ差し出した控で、年号は記されていないが、個人名、名字の用いてないことや商・工のことばから明治初期のものと思われる。この控によると、六九人の職業は、農工商にほぼ三等分される。それぞれの職業が専門化せず、半農半商・半農半工であった。