松代(午札(うまさつ))騒動

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明治三年(一八七〇)北信地方に、松代騒動(十一月二十五~二十七日)・須坂騒動(十二月十七日)・中野騒動(十二月十九~二十一日)と、大騒動が続発した。松代藩では戊辰(ぼしん)戦争(一八六八)の藩債処理のために発行した多量の藩札や商法社札(午札)の暴落により、物価が騰貴し、前年の不作と新政府への失望も加わって、農民たちは「世なおし」を唱えて、各地で暴動を起こした。明治三年十一月二十五日上山田村に起こった一揆は、松代領更埴高水四郡数万人におよぶ騒動となった。一揆勢は、北の稲積村や西の三輪(みわ)村の方から吉田へ入ろうとしたが、すでに吉田では、分別あるものが手配し、村の出入り口で、「吉田村はもう打ちこわしたからよそへまわれ」と指示したため、産物会所や商家は被害を受けなかった。しかし、下宇木村助九郎の調書によると、吉田村の住民も、騒動にかなり参加していたことが推察される。

 騒動から四ヵ月後の明治四年三月、「今回の騒動の結果死罪は八〇人をこす」などの流言が人びとを不安におとし入れた。太田村の倉沢鑑之助は、四月に郡政役所へ「今回の騒動に参加した人びとの心を察して、首謀者を除きその死一等を減じて欲しい。」という「建言書」を提出した。この「建言書」は藩知事から賞賛され鑑之助は、感激して子孫に伝えるために『擾乱座見記(じょうらんざけんき)』を書いた。