浅川用水は飯綱山麓(さんろく)に築いた七つのため池を水源としてきた。浅川の下流は天井(てんじょう)川で、ふだんは水が少なく石がごろごろしていたので、地元の人たちは浅河原と呼んでいた。吉田地区は上流から、押鐘(おしかね)・鉢ノ子・東沢・四反田(したんだ)・裏・庄ノ宮堰(せぎ)を引水していた。「鉢ノ子堰」の名は、江戸時代に押鐘地区の干ばつを見かねた盛伝寺の住職の「托鉢(たくはつ)の鉢の大きさぐらいの穴の堰を開けてくれ」が認められたことによるという。浅川周辺の檀田(まゆみだ)・稲積・山田・徳間・東条・吉田・押鐘・上宇木・下宇木・上松の一〇ヵ村は、浅河原用水組合を組織し、川筋の修理保全と、円満な水田灌漑(かんがい)をおこなった。発足以来、当組合の組織替えはいく度かおこなわれたが、現在は「長野市浅河原土地改良区」に引き継がれている。
長野市浅河原土地改良区の記録によると、その水源池の由緒はつぎのとおりである。永禄(えいろく)六年(一五六三)に、海津城代高坂弾正の家臣の小林宇右衛門が普請奉行として大池を、同十年丸池を築いた。以後、上蓑(みの)ヶ谷池(明暦(めいれき)二年・一六五六)、下蓑ヶ谷池(貞享(じょうきょう)三年・一六八六)、論電(ろんでん)ヶ谷池(宝暦(ほうれき)九年・一七五九)が築かれた。延宝(えんぽう)二年(一六七四)大座法師池を浅河原一〇ヵ村が、上ヶ屋村ほか五ヵ村から、永借地として借用した。昭和二十一年(一九四六)には猫又池を完成し、水不足はほとんど解消されたといわれる。明治二十六年(一八九三)の改良区の灌漑面積は三六四町歩(三六一ヘクタール)。組合員約七〇〇人であった。昭和三十年代から区域の宅地開発が進み、水田面積は減少した。平成六年(一九九四)灌漑面積七五ヘクタール、組合員四六〇人となった。昭和五十八年論電ヶ谷池を長野市に譲与し、現在アメリカン・フットボールなどの運動場になっている。