鐘鋳堰(かないせぎ)は、桐原・中越・太田・吉田を含む一〇ヵ村の用水で、午後四時~午前四時までの夜水を取水した。現在は「善光寺平土地改良区」に属している。鐘鋳堰の灌漑面積は昭和初期に三一五町歩(三一二ヘクタール)。吉田地区は八五町歩で、灌漑面積全体の二七パーセントであった。同五十年には灌漑面積五九町歩(五八・五ヘクタール)と約五分の一に減少し、吉田地区は、三一町歩(三一ヘクタール)で、約三分の一に減り、改良区の灌漑面積全体の五二パーセントにあたる。
明治三十九年六月二十七日付け『信毎』の「鐘鋳川堰の水論」によれば、「鐘鋳堰組合の用水方法は下流地籍から早仕付をすることにしてあって、既に十三年以前から実行して来たが、鍋屋と中越との間に水論があった」とある。鐘鋳堰は中流以下では水の流れがゆるやかになり、流域中一〇〇余もの多くの樋口があるために自然にこの樋口に流れ込んだりして、流末に水が届きにくいので苦労した。
時には水論(水争い)があっても、一三ヵ村で話し合い、規定をつくり、公平な用水の分配に苦心し、慣習を重んじて水争いを未然に防ぐことに努めてきた。昭和三十年代後半ごろから、水田も宅地化が始まり、現在鐘鋳堰の水はいつでも自由に使える。