善光寺を中心に「木綿布仲間」があり、取り決めをつくり品質の統一をはかった。「天保(てんぽう)十年木綿布仲間連盟調帳、新町口(しんまちくち)世話役」によると、仲間八〇人のうち吉田組二〇人・善光寺東町七人・横山組七人・小島六人である。明治はじめの『町村誌』によると、吉田の実綿の産出は一一八九貫(四・五トン)で、綿布四九三反、縞布(こうふ)五一二反、古野村は実綿三〇〇貫(一・一トン)で、浅川用水も鐘鋳堰(かないせぎ)も水不足になることが多かったので、綿を栽培した。
吉井屋染織工場は、吉田横町に明治五年創業、木綿の原糸を染め、吉田縞(じま)を織った。吉田縞の原糸は、大阪の商社や鐘紡から入れた。染色原料は四国から「正藍(しょうあい)」を買い、工場の藍瓶(あいがめ)に入れて熟成させ染めた。吉田縞一反は二〇〇匁(七五〇グラム)つけたから、農作業に丈夫でよかったが、昭和四十年代には、かすりの時代に入った。かすりは一二〇匁(四五〇グラム)で、縞より弱いが派手で、縞は売れなくなってしまった。吉田縞は宣伝マークに「天狗印(てんぐじるし)」をつけた。若向き・年輩向き・女性向きと三〇種類ほどあった。