北国(ほっこく)街道は慶長(けいちょう)十六年(一六一一)ころに整備され、宿場のきまりも定められた。道幅は約三間(約五・五メートル)であった。明治二十一年(一八八八)信越本線が開通した。同二十三年乗合トテ馬車が淀ヶ橋・吉田・須坂間を走った。
明治三十年三月十日付け『信毎』は、「上水内郡で町制にすべき村」として、「吉田村の如き既(すで)に今日に於(おい)て、有力なる商人もある上に停車場の設置せらるる暁には四隣市聚(りんししゅう)の地となるや明らかなれば宜(よろ)しく町に進めて可(か)なるべく」と書いている。
同三十一年九月一日信越本線に吉田停車場設置(現北長野駅、昭和三十二年改称)。停車場の設置により、吉田村はますます交通が便利になり、従来の農村から徐々に小工業化し、のちに吉田村を町制にしていく原因となり、まだ街道筋に商店を並べるもととなった。
停車場設置の年に、「一線路」吉田駅-小学校、「二線路」吉田駅-横町と本町角、「三線路」吉田駅-中枝町(なかえちょう)(中越の池まで)開通。停車場開設にともない貨物を扱う俊明社・吉田運送設立。大正十年(一九二一)八月乗合自動車、淀ヶ橋-吉田-須坂間開通。同十五年六月十一日長野電鉄の権堂-須坂間開通、信濃吉田・桐原(きりはら)の両駅が設置された。吉田町の長野市への合併条件は、電車の開通であった。
昭和七年(一九三二)吉田-若槻吉村間に乗合自動車運行(八人乗り、時速二五キロメートル)。同十一年吉田上松線(SBC通り)開通。同十三年東町の前田鉄工所東から原町を結ぶ道路完成。同二十六年吉田-浅川線開通。同二十九年広町-桐原線開通。同三十七年北長野通り開通。同四十二年北長野駅に貨物基地が設立され宮下居館跡が取りこわされた。
JR信越線東町踏切の地下道建設工事は箱型構造で進められている。