大規模な鑑之助塾

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太田村の倉沢鑑之助は安政(あんせい)四年(一八五七)から家塾を開いた。塾生は六年から十三年まで八ヵ年間通学、無定期制で、往生地や古里地籍から通う生徒もいた。明治十六年の「寺子屋取調表」によると男子が一〇〇人在籍し、規模の大きい塾であったが女子は皆無であった。明治十四年に一年間ほど新徳学校(石渡)の先生をしている。生徒に教えるかたわら、『擾乱坐見記(じょうらんざけんき)』ほか五巻の著書をだした。