何丸

347 ~ 347

北本町の人。江戸後期の俳人。宝暦(ほうれき)十一年(一七六一)~天保(てんぽう)八年(一八三七)十月二十七日没。本名は茂呂(もろ)一元、何丸(なにまる)と称し、通称治郎右衛門。はじめ小沢氏を称したが、のち先祖の茂呂姓に復した。岡沢陸沈の銀杏(いちょう)塾に学んだ。芭蕉の俳諧の研究に専念し、江戸に出て(文政(ぶんせい)二年、五八歳)田原町に開庵した。文政六年(一八二三)俳諧七部集の最初の注釈書『七部集大鏡』は名を全国に知らせた。文政七、八年ころ刊行された「諸国正風俳諧師番付」に上位から三番目に記載されている。「儒(じゅ)は太宰(だざい)・すもう雷電・武士真田・ソバに月見に一茶・何丸」(十返舎一九(じっぺんしゃいっく))といわれたという。京都の二条家から文政七年(六四歳)「月院社大宗匠」を許された。さらに天保三年(七二歳)「俳諧奉行職御代官」を仰せつけられた。『芭蕉翁句解参考』など三〇巻もの著書がある。皇足穂(すめたるほ)吉田大御神宮(おおみかみのぐう)境内の句碑「人丸も赤人も知らず菊の花」、また同神社のわきの観音堂の句碑「只涼し水ものぼらず月も来ず」がある。


写真10 観音堂前にある何丸の句碑