終戦直後の吉田地区は大変な住宅難がつづいた。昭和二十五年、公営住宅は国の援助を得るようになり、市および県は公営住宅のほか、分譲住宅の建設を強化促進した。
吉田地区では、同二十三年に県営住宅を東町に五〇戸建設、同二十五年県営・市営住宅広町屋敷田耕地に建設し、同三十年に二二四戸完成したが、同二十四年までは、上水内(かみみのち)農学校(現在長野吉田高等学校)が大正十二年(一九二三)以来唯一の建物であった。昭和三十二年吉田地区に広町地区二三五戸誕生し、同三十三年西堀町四二戸誕生。同四十七年鍋屋地区に白菊団地四三戸完成、同四十八年太田地区に芙蓉(ふよう)苑団地一三〇戸を造成した。長野市街地につづく住宅・商業用地などとして発展をしている。