長野市への編入合併

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昭和十九年、長野市から近隣六ヵ村に合併の申し入れがあったが、戦争の激化で立ち消えた。戦後昭和二十五年ごろから組合立中学校の建設問題で、PTAの代表が村の理事者を交え朝陽、柳原との三ヵ村で研究したが、財源と土地問題で計画を断念した。

 昭和二十八年三月古里・朝陽・柳原三ヵ村の適正規模調査会が発足したが、合併後の役場の所在地、中学校建設問題で難航した。そんな同年七月七日、長野市から古里村にだけ合併の申し込みがあった。古里村にとっても、三ヵ村にとっても重大な問題だった。古里村では特別委員会を組織して三ヵ村の合併と長野市合併の二案を審議するとともに、部落懇談会や篠ノ井、塩田などの先進地の視察も実施した。八月三十一日に公聴会を開催したところ、長野市との合併意見が大勢を占めたので、九月四日長野市の理事者と会談をした。

 ところが十月八日、長野市が近隣の七ヵ村に対して合併申し入れを決定し、古里村にも申し入れがおこなわれた。単独合併ですすんでいた古里村にとっては突然のことで対応は複雑であったが、小異をすてて合併をすすめることにした。十二月十日には両議会で昭和二十九年四月一日をもって合併することが議決された。この動きは揺れ動いていた近隣の村々に影響を与え、昭和二十八年十二月から翌年三月までに他の九ヵ村も合併に踏み切り、昭和二十九年四月一日の大合併が実現した。