四 戸口の移り変わり

363 ~ 364

 古里地区の戸口は、明治の初めから第二次大戦終了時までほとんど変化はない。戦後ベビーブームの影響もありしだいに増えてきたが、地区の戸口に大きな変化があらわれたのは昭和四十年代以後である。

 昭和三十八年(一九六三)上駒沢(かみこまざわ)の原地籍から徳間(とくま)地籍にかけて、長野工業高等専門学校、同三十九年市立二高等学校(のちに市立高校と合併し皐月高等学校)が開校すると信越線の三才(さんさい)停留所の乗降客も増え、同四十一年には廃止寸前だった三才停留所が駅に昇格した。同年県企業局によって上駒沢新町(あらまち)団地が造成されると、市の中心部へ信越線を利用しても、長野電鉄線を利用しても一〇~一五分という便利さが買われて、団地や個人住宅の建設が急速に進んだ。


表1 古里地区の戸口の変遷/(明治12年『町村誌』・明治21~大正4年『県史統計史料緇』・大正9年~『長野市統計書』より作成)

 戸口は表1にみられるように急速に膨張し、平成七年度(一九九五)の戸数は四四三八戸、人口は一万三四九八人となっている。昭和四十一年の人口と比べると三・三一倍の増加で、この増加率は市内トップである。

 職業構成も明治十二年(一八七九)には農業が九三パーセントであったのに、平成二年度には七・二パーセントとなっている。専業農家はわずかに四一戸となっている。また、就業者の八四パーセントは雇用者であり、地区は農村から近郊住宅地域へと大きく変わってきている。