古代当地区は、大田郷(おおたのごう)に属していたと思われるが確証はない。上駒沢(かみこまざわ)から三才(さんさい)にかけての西部の丘陵地帯には、念仏塚、大塚、三才田子、駒沢新町などの遺跡があり、古くから開けていたことは明らかである。
しかし、千曲川・浅川の氾濫原(はんらんげん)であった地区の大部分は、荘園制の発展にともない形成発展したと考えられる。
地区の郷名が史料に出てくるのは鎌倉時代末期の嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)が最初である。「諏訪上宮頭役結番(とうやくけちばん)帳」に、東条(ひがしじょう)荘和田郷(長野市和田地区)の和田三河入道が五月会(さつきのえ)右頭番をあてられ、その寄子(よりこ)として富武地頭が頭役を割り当てられたと記されている。
同じ嘉暦四年の「上社造営帳」に東条荘の郷とは別に三歳(さんさい)・狩箱(かりばこ)に外垣を、北・南駒沢に池郭の造営が割り当てられているので、当時は三歳(才)、狩箱(金箱)、駒沢は東条荘ではなかった。長沼(ながぬま)(太田荘)に島津氏が勢力を張っていたので大なり小なりその影響をうけ、そのなかで駒沢氏がしだいに台頭していたと考えられる。
明徳(めいとく)三年(一三九二)の「高梨朝高並一族以下取付給人所々注文」には、東条荘内の郷として得永(徳永)・中駒沢の郷名がみえるので、このころにはこれらの地区も東条荘に属し、高梨氏が勢力を伸ばしていたことがわかる。十五世紀後半に富竹・徳永地区には安茂里窪寺領主の小田切氏が進出し、当地区の土豪と考えられる徳永氏が小市(こいち)の代官をつとめている。
東条荘は鳥羽天皇が保安(ほうあん)四年(一一二三)に安楽寿院へ寄進し、のちに皇女璋子(しょうし)内親王(八条院)に譲られた荘園で、もっとも拡大したときは中野市延徳(えんとく)から須坂市米持(よなもち)のあいだと、千曲川の西岸で太田荘の長沼(島津氏)と善光寺領の村山を飛び越えて、北は上駒沢から南は西尾張部あたりにまで広がっていた散在(さんざい)荘園である。