駒沢氏館跡

368 ~ 369

上駒沢の東端の諏訪神社の南一帯の地籍は、『科野佐々礼石(しなのさざれいし)』に、「駒沢刑部籠居(ろうきょ)の館として、暦応(りゃくおう)元年(一三三八)より、天文(てんぶん)三年(一五三四)村上義国の下知にしたがわず、葛尾(かつらお)城で誅(ちゅう)せられるまでの七代居住」と記されている駒沢氏の城館跡といわれる。現在は耕地になっていて遺跡として残るものはないが、地区の名称を内堀(うちぼり)といい、付近に二の郭(くるわ)、御倉(おくら)屋敷、馬場などの地名があり、堀の一部と考えられる溝が用水路として残り、当時をしのぼせている。

 駒沢氏については、長沼の西厳寺(さいごんじ)境内の碑に、寺を下総(しもうさ)(千葉)から招いたとして駒沢刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)の名が刻まれている。さらにこの駒沢氏との関係は不詳であるが、「上杉御家中諸士略系譜」第一四主税介(ちからのすけ)の譜に、「駒沢主税介は武田家に勤仕駒沢城に居城。武田氏滅亡後、上杉景勝(かげかつ)に従い、翌年虚空蔵(こくぞう)山にて討ち死に。弟源五郎(主税介)幼少のため、父常閑(じょうかん)が長沼城主島津忠直の同心として軍役をつとめ、のち庄内で討ち死に。景勝の会津転封のさい、主税介は忠直に従い移住。扶禄(ふちろく)二六〇石を給せられ、御馬廻役をつとめた」という内容の記載がある。


写真3 駒沢氏の居館跡(左側の用水路は当時の堀跡、後方の森は諏訪神社)