富竹字弘誓(ぐぜ)の水田のなかに、長禄(ちょうろく)四年(一四六○)以後の『諏訪御符礼(みふれ)之古書』に出てくる、小田切氏の小市代官をつとめたといわれる徳永氏の館跡(やかたあと)があった。昭和十七年(一九四二)の耕地整理までは、周りより〇・五~一メートル高い原野と大きな赤松があり、「一本松の館跡」と呼ばれていたが、現在は痕跡(こんせき)をとどめていない。
徳永氏館跡
富竹字弘誓(ぐぜ)の水田のなかに、長禄(ちょうろく)四年(一四六○)以後の『諏訪御符礼(みふれ)之古書』に出てくる、小田切氏の小市代官をつとめたといわれる徳永氏の館跡(やかたあと)があった。昭和十七年(一九四二)の耕地整理までは、周りより〇・五~一メートル高い原野と大きな赤松があり、「一本松の館跡」と呼ばれていたが、現在は痕跡(こんせき)をとどめていない。