富竹陣屋跡

369 ~ 370

中屋敷の県道丁字路の北に、寛延(かんえん)四年(一七五一)から宝暦(ほうれき)十三年(一七六三)のあいだ、幕府代官の陣屋(出張(でばり)陣屋)が置かれ、水内郡の幕府領の村々がその支配下にあった。代官は宝暦四年までは坂木代官の浅岡彦四郎、十年までが渡辺民部、その後は今井平三郎(ともに新井代官)であった。

 その後、寛政(かんせい)四年(一七九二)から文政(ぶんせい)六年(一八二三)までと天保(てんぽう)七年(一八三六)に、石見(いわみ)(島根県)浜田領主松平周防守(すおうのかみ)(六万石)の信濃飛び地領(一万石)の陣屋が置かれ、富竹の名主のうち一人が割本(わりもと)として領内の村々の取りまとめにあたっていた。陣屋の敷地は東西・南北ともに二八間(五一メートル)であった。

 現在は民有地となっていてその跡をとどめないが、徳永家の陣屋稲荷と宮沢家の長屋門(天保八年元割本の徳永十右衛門が関係一四ヵ村から払い下げをうけた)がその跡を物語っている。


図1 富竹陣屋画図(陣屋売渡証文付箋図・徳永長寿蔵)