二 寺院

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 信叟寺 曹洞宗 金箱字芋地(いもち) ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 万松山(ばんしょうざん) ③由緒 寺伝によると大永(だいえい)五年(一五二五)駒沢大和守貞秀(さだひで)(深志城主小笠原貞友の次男)が足利義晴(よしはる)の命で、安曇郡駒沢にあった華厳寺(けごんじ)(応永十四年足利道義(みちよし)が建立)を善光寺岩石裏に再建して真想寺と改め、道元より一五世の法孫の興山豐隆(ほうりゅう)を招請して中興の祖とした。以後曹洞宗となり、宗派の道場として栄えた。

 川中島の戦により焼失。永禄十三年(一五七〇)大和守貞秀の遠孫、関源右衛門が金箱寺中地籍に建立、高山三左衛門信叟(しんそう)か多護者(げごしゃ)となったので、信叟寺と改められた。除地高二〇石。

 正徳(しょうとく)四年(一七一四)、浅川の氾濫(はんらん)で柱礎が埋まり現在地に移転。弘化(こうか)四年(一八四七)の大震災で倒壊、嘉永(かえい)五年(一八五二)に再建。明治十四年(一八八一)旧飯山城の大手門を移して山門とした。同三十九年放火により山門の一部と土蔵二棟を残しただけで焼失した。同四十二年に庫裏(くり)、大正十四年(一九二五)に本堂を再建したが、昭和十六年(一九四一)の長沼地震により本堂がまたまた倒壊。昭和二十九年に再建された。来沢寺(金箱寺浦)など末寺九ヵ寺をもっている。

 法林寺 曹洞宗 上駒沢字寺浦(てらうら) ①本尊 釈迦牟尼仏 ②山号 紫雲山 ③由緒 安永(あんえい)元年(一七七二)信叟寺八世日邦祖本によって開山され、慈雲庵四世法林悦恩尼が開基となる。弘化の震災で破壊し、四世白窓廉亨尼が再建。明治六年廃寺となり、五ヵ村通学の仮学校、二五大区の役所として一時使用された。明治十三年に信叟寺一六世塚田祖隣の協力と信徒の支援をうけ、五世浦野貞随尼が自費で復興した。以前境内に二階建ての僧堂があり、昭和七年まで尼僧学林として多くの尼僧を宗門に送った。

 浄専寺 浄土真宗本願寺派 三才念仏塚 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい)②山号 歓喜山 ③由緒 若槻東条の正覚寺の開基善性(ぜんしょう)が一宇を建立したのに始まり、本尊は檀信徒が本山の内仏を拝領し安置したものである。住職は、一世から四世までは正覚寺から通勤していたが、四世善鎮(ぜんちん)が寺下である越後粟生津の浄専寺の寺号を移し、弟の善覚(ぜんかく)が五世を継いだので善覚を開基としている。後年火災にかかり、天明(てんめい)二年(一七八二)再建された。境内に太子堂と大きな藤の木があり、藤寺ともいわれ親しまれている。寺宝に建暦(けんりゃく)二年(一二一二)書の法然上人御姿・蓮如上人六字名号・正覚寺一三世慶了が顕如(けんにょ)上人より拝領した軍扇(ぐんせん)がある。


写真7 顕如上人より拝領の軍扇(浄専寺)

 正澤寺 浄土真宗本願寺派 下駒沢字中駒沢 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 笠原山 ③由緒 僧嗜山(しざん)が寛政二年(一七九〇)に創建したので嗜山を開基としているが、事実は中興であろう。古くは霊仙寺といい、正澤寺(しょうたんじ)となったのはいつか不明であるが、山号から中野の本誓寺(ほんせいじ)の系統の寺院と思われる。天正八年(一五八〇)三河武士が同国加茂郡明専寺からたずさえてきて、この地に再建したという檀家の墓碑があるので、そのころには寺が存在していたと考えられる。弘化の震災で被害をうけ、長命寺の余材で再建した。その後寺勢も振るったが昭和四十二年火災により堂宇、古文書、寺宝のすべてを焼失。同四十三年庫裏、同四十五年本堂を再建した。

 直心院 曹洞宗 富竹山道 ①本尊 弥勒菩薩座像(みろくぼさつざぞう) ②山号 知足山 ③由緒 元禄(げんろく)二年(一六八九)讃岐(香川県)高松の見性寺(けんじょうじ)の徳厳養存(とくげんようぞん)が、矢沢曾兵衛から寺領一六石の寄進をうけて開山した。弘化の震災で倒壊した。その後、富竹の名工徳永七郎左衛門が鐘楼(しょうろう)を建立、一五世の覚戒広円か明治十六年本堂を再建した。

 西栄寺 浄土真宗本願寺派 富竹山道東 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 上宮山 ③由緒 僧恵宗が開基。永禄(えいろく)年間(一五五八~七〇)ごろまでは天台宗で大変にぎわったが川中島の戦火で焼失した。そののち小堂宇を建てたが、幕末になって南堀西敬寺の最栄によって再建され、それ以後浄土真宗となった。昭和九年火災で焼失し、同三十二年に庫裏を再建した。ほかに上駒沢に大澤(だいたく)寺(通称観音堂)と真願寺(昭和二十六年廃寺)がある。