二 村人の生活

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 幕府領における農村の支配機構は、各村に一人の名主(なぬし)(大村は二人。明和(めいわ)二年(一七六五)・文化(ぶんか)三年(一八〇六)の文書では富竹村は二人)その下に組頭(くみがしら)、百姓代の三役を置いた。また、江戸後期にはそれらの村の何ヵ村かをまとめて組合村をつくり、その組合ごとに組惣代(そうだい)を決めて組合内の取りまとめをさせた。さらに、陣屋の所在する村の名主を郡中惣代(郡中代、割場)として領内全村の取りまとめをさせていた。天明(てんめい)八年(一七八八)の中之条陣屋支配の村々は三八の組合村に編成されていて、下駒沢村と金箱村の名主が組合村の組惣代をつとめている。

 また、文化年間(一八〇四~一八)から、警察的な治安を担当する取締役を主要な村に配置した。文化十四年の記録では下駒沢村、文政(ぶんせい)八年(一八二五)に上駒沢村と下駒沢村、弘化(こうか)三年(一八四六)、嘉永(かえい)五年(一八五二)の記録では金箱村、上駒沢村に配置されている。取締役は、主として名主の兼務が多かったが、嘉永五年の上駒沢村の場合は、平百姓のなかから選任されている。

 延享(えんきょう)四年(一七四七)の上駒沢村の年貢皆済目録をみると、村高五三七石三斗七升五合に対して本年貢として一〇〇石八斗二合(約一九パーセント)を、現物ではなく三分の一を一両につき米一石五斗四升、残りの三分の二を一石六斗九升の割合で換算して、金銭で納める石代納(こくだいのう)と呼ばれる方法で納入している。

 ほかに本年貢の付加税としての口米(くちまい)三石七升七合、高掛物(たかがかりもの)といわれる御伝馬宿(おでんまじゅく)入用(街道宿駅の維持費)三斗二升二合、六尺給米(ろくしゃくきゅうまい)(幕府賄方(まかないかた)の費用)を一石七斗三升、御蔵前入用(年貢納入のさいの雑用費)一貫三四一文二分、雑税として大豆五石を金に換算して(一両につき大豆二石三斗六升六合)納入している。村人はこれ以外に、村、組合村、郡中の入用高の負担もしなければならなかった。さらに、元文(げんぶん)四年(一七三九)から当地区は長沼宿の助郷村(すけごうむら)を割り当てられていて、この負担も大きかった。

 弘化四年の「下駒沢村震災被害潰家等巨細取調書上帳」に被害にあった七一戸について、家ごとの持高と居宅の規模が書かれている(村の総戸数は不明であるが、寛延(かんえん)四年(一七五一)には六九戸、慶応(けいおう)二年(一八六六)は八二戸であった)。

 持高の最高の家は三〇石二斗(約五四五〇リットル)余であり、次は一八石余の所持である。一〇石(一八〇〇リットル)以上の所持の家は四戸(六パーセント)、五石(九〇〇リットル)以上一〇石未満が一四戸「二〇パーセント)、三石(五四〇リットル)以上五石未満が一二戸(一七パーセント)である。四一戸、六〇パーセント」近くの家が三石未満の零細経営である。しかもその半数は一石未満である。

 居宅の建坪は、名主の家が六三坪余、持高三〇石余の村一番の百姓の居宅が五五坪であり、五〇坪(一六五平方メートル)以上の家はこれ以外はない。四〇坪(一三二平方メートル)以上が七軒、三〇坪(九九平方メートル)以上は四軒、二五坪(八三平方メートル)以下の家が四二軒、そのうちの二〇軒は一五坪以下である。七・五坪に五人という家、一〇坪三三平方メートル)の家に三世代七人という家もある。しかし、当時の他地域の農村と比べるとたいへん大規模である。

これは当時すでに養蚕がおこなわれていたからだと推察できる。

 明治はじめの『町村誌』によれば、畑では夏作は麦が中心、秋作は大豆・粟・ひえ・あずき・そばなどの雑穀に、自家用の大根・にんじん・ごぼうなどの野菜類を栽培した。綿花が全地区で栽培され木綿、縞(しま)木綿に織られていた。幕末には富竹・下駒沢で葉藍、金箱・下駒沢で菜種、富竹・上駒沢で養蚕がおこなわれていた。

 江戸時代を通じて当地区に発生した百姓一揆(いっき)などの騒動は一件もなく、他地域の騒動などに参加したものもいなかったとみられる。