一 村高(収穫量)の変遷

381 ~ 382

 江戸時代から明治初年までの、課税対象となる村の持高の変遷は表3のようである。

 明治十三年(一八八〇)富竹村は『町村誌』の末尾に員外の項目を設けて「本村はもと豊饒肥沃(ほうじょうひよく)の土壌たりしに、浅川の激湍(げきたん)全村の半を横流して、川敷の地位耕地より高し、故に春秋暴水の都度堤防を崩し、石砂を耕地に押出し、水害を受ること毎年にして(略)」と報告している。


表3 古里地区の村高の変遷

 また慶応(けいおう)二年(一八六六)の「下駒沢小前差出帳」に「長さ五間、五寸四角の切樋(きりどい)を浅川堤に三箇所埋めておいて、用水に用いていたが、近年水一切下らず、夕立の時に役立つ程度である」「用水の堤はない。ため池の水と天水だけを用いている。浅川・駒沢川は四月から八月まで水はいっさい流れない」という記述がある。

 地区を流れる川は天井川で砂礫(されき)層の上を流れるので、少し雨が降ると氾濫(はんらん)する。それでいて夏には枯渇(こかつ)して灌漑(かんがい)用水としては役に立たなかったのである。氾濫と干害の繰りかえし。まさに水に悩ませられ泣かされた生活のなかで、人々は黙々と生産に励み、一四〇パーセントにもおよぶ石高増を実現していることはまさにおどろきである。全期間を通じて四〇パーセントの増加のうち前期一〇〇年間が三二パーセントを占めている。とくに三才の六七パーセント増は大きい。これは長沼領佐久間氏時代にあたり、検地の徹底以外に、田子池の水についての吉村との争いの解決による用水の確保が、大きな要因であろう。