二 ため池と用水

383 ~ 384

地区の川は、天井川なので夏はかれてしまう。村人は古くから大変な努力を重ねて用水を確保してきた。

 西部の扇状地では、田子池(若槻・田子)、社が池(三才)、原ノ池(上駒沢)、下駒沢の池(もとは上駒沢宮下にあった。新田川の決壊で埋まり明治二十六年(一八九三)中駒沢につくる)などのため池をつくり灌漑(かんがい)用水とした。ため池を構築する努力は明治以後もつづき、北ノ池(上駒沢)、西ノ池(上駒沢)、伊勢社北ノ池(下駒沢)、昭和二十八年(一九五三には弘誓(ぐぜ)池(富竹)が構築されている。

 田子池は若槻の田子・吉の両地区と古里の三才地区の重要な水源であった。このため何回かの水論がおきている。寛永(かんえい)十七年(一六四〇)にも吉村とのあいだで水論がおこったが、両村の領主が伯父(おじ)と甥(おい)の間柄(佐久間氏)であることから、月のうち六夜に一夜ずつ吉に分水することで解決している。

 いっぽう富竹と金箱の東部の低湿地は、八幡堰(せぎ)の分水である白山堰・下堰・金箱堰をつくり、この幹線用水路から等高線にそって東流させた枝堰による灌漑であった。この用水をめぐって小島村などの隣村との争いがたびたびおきた。富竹と金箱は、八幡堰組合のなかでももっとも発言力の強い長沼用水組合の構成村である。


図2 古里地区灌漑用水 (『古里小学校九十年誌』(小野寺幸雄作成図)による)