江戸から明治時代にかけて、地区で人馬の往来のもっとも多い路線であり、改修されて現在は県道長野豊野線となっている路線である。
慶長(けいちょう)十年(一六〇五)以前の一時期、北国街道は吉田から稲積(いなづみ)の一里塚、上駒沢(かみこまざわ)、三才(さんさい)をへて吉(よし)に向かう古代の官道とほぼ同じ経路をとっていた。新町(あらまち)宿も徳間(とくま)の三丁町(皐月高校付近)から上駒沢の新町にかけての地籍にあったとされている。北国街道の改修移転後、人びとの通行はなくなり農耕路となった。飯山街道も徳間で分岐して、上駒沢の新町地区・三才をへて豊野町の神代(かじろ)・豊田村替佐(かえさ)・飯山にいたる道筋となった。