幅員二メートルたらすの狭い道であったが、富竹はもちろん朝陽や柳原方面から北部山地の秣場(まぐさば)や、三才の問屋から塩・鮭(さけ)・鰊(にしん)・雑貨を馬で運んだ道であった。小島から上州街道を山道西と東の境界付近で横切り、金箱神社東、中央橋、法林寺の東を通って三才にいたる道で、富竹のはずれ付近では櫟(くぬぎ)の並木が垣のようにつづいていた。現在の県道三才大豆島中御所線は、この路線を修正拡幅を重ねてきたもので、昭和二十六年(一九五一)から長野電鉄のバスが走るようになり、同時に県道に編入された。
山道街道
幅員二メートルたらすの狭い道であったが、富竹はもちろん朝陽や柳原方面から北部山地の秣場(まぐさば)や、三才の問屋から塩・鮭(さけ)・鰊(にしん)・雑貨を馬で運んだ道であった。小島から上州街道を山道西と東の境界付近で横切り、金箱神社東、中央橋、法林寺の東を通って三才にいたる道で、富竹のはずれ付近では櫟(くぬぎ)の並木が垣のようにつづいていた。現在の県道三才大豆島中御所線は、この路線を修正拡幅を重ねてきたもので、昭和二十六年(一九五一)から長野電鉄のバスが走るようになり、同時に県道に編入された。