三才地区への停留所の設置問題が起きたのは、昭和十六年ごろであった。国立療養所設置と古里の産物輸送の必要からだった。その願いが実現したのは同三十三年のことであった・しかし、利用者が少なかったことで廃止の声が出はじめた。そんな折、同三十八年国立長野工業高等専門学校が上駒沢の一部にまたがり開校されると利用者が増加し、同四十一年には信越線の電化とともに駅に昇格した。
長野電鉄線は富竹の西端をわずか五〇メートル通るだけであるが、朝陽駅が富竹境から三、四百メートルであり、昭和三十一年に朝陽駅まで複線化されたこともあって、古里の南の玄関口として通勤通学、買い物客の利用が多い。