明治十五年(一八八二)ごろ三才に三台の人力車が購入され、三軒で開業した。ハイヤーが走ったのは大正七年(一九一八)ごろである。当時は道が狭くて上州道だけしか走れなかった。バスは昭和二十六年九月から、長野電鉄の古里回り豊野行きが県道三才大豆島中御所線の三才駅入り囗の道路を拡張して運行された。自転車は大正二年ごろにはじめて入り、同七年ごろは一〇台だったが、同十四年には三〇〇台に達したという。
乗り物の発達
明治十五年(一八八二)ごろ三才に三台の人力車が購入され、三軒で開業した。ハイヤーが走ったのは大正七年(一九一八)ごろである。当時は道が狭くて上州道だけしか走れなかった。バスは昭和二十六年九月から、長野電鉄の古里回り豊野行きが県道三才大豆島中御所線の三才駅入り囗の道路を拡張して運行された。自転車は大正二年ごろにはじめて入り、同七年ごろは一〇台だったが、同十四年には三〇〇台に達したという。