通信の発達

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明治六年飛脚制度が廃止されると、地区にも郵便局が開設された。上駒沢の浅川勝右衛門宅に郵便取扱所が開設され、同八年五等郵便局となった。集配区域は当地区と現長沼地区、豊野町の南部地区であり、取扱信書数は二六二〇通であった。同十三年同局が廃止され、地区は東条局と長沼局の管轄に分かれた。その後吉田局、豊野局、あるいは長野局と地区によって何回か管轄局が変わったが、大正十二年から長野局管内に統一された。平成元年(一九八九)長野東局の開局でその管轄区域になった。

 昭和二十一年金箱の流(ながれ)地籍に古里郵便局(無集配特定局)が、昭和四十八年には西三才に上駒沢簡易郵便局が開設されている。

 電話の普及はわりあい遅かった。大正十五年警察電話が架設されたが、一般の電話の加入は昭和十一年の役場と農協共用の電話が最初である。その後だんだん普及はしたが、同二十九年にはまだ公共機関六(役場・学校・農協・郵便局・ふるさと工場・長水病院)、私用三の九本だけであった(『古里村誌』)。