干害

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地区を流れる川は、いずれも天井川で漏水が激しく、夏になるとかれてしまうことが多かった。このために昔から干害をうけやすく、しばしば見舞われた。

 記録に明らかなものでは大正十三年(一九二四)の被害がある。水田はまっ白にひび割れ、用水堰(せぎ)もため池も干上がり雑草が生えるほどだった。水稲収量は上の部で九〇~六〇パーセント、下の部では五五パーセントから全滅におよんだ。

 夏秋蚕も全滅、晩秋蚕で少量の繭(まゆ)がとれただけであった。

 この折の鐘鋳堰(かないせぎ)と八幡(はちまん)・山王(さんのう)両堰との水争いには、古里地区からも二〇〇人ぐらいが動員されて駆けつけたという。この騒ぎは、昭和五年の県営善光寺平農業水利改良事業の成立によって和解した。

 田子池も明治のはじめ泥上げ工事をして、用水に不足することのないようにしたのだが、この大干ばつのときは水が一滴もなくなり、田畑の作物はもちろん山野の樹木も枯れるありさまとなった。田子池を管理する田子・吉・三才の三区では池の整備拡張のために、翌年に水利組合、昭和二年に耕地整理組合をつくり拡張工事をおこなった(昭和二十七年に組合は田子池土地改良区となる)。

 昭和十七年の干害では桑も落葉し、富竹、金箱、上駒沢、下駒沢の水稲は枯死寸前となった。地方事務所の仲介で鐘鋳堰の余水をうけ、ようやく枯死をまぬかれた。農家の損害は一戸当たり四〇〇円におよんだ。