一 寺子屋の普及

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 明治十九年(一八八六)四月の「上水内郡私塾・寺子屋取調表」によると、金箱(かねばこ)・下駒沢(しもこまざわ)・三才(さんさい)が各二、上駒沢(かみこまさわ)が一と報告されている。近隣に比べてわりあい多い数である。また、「概(おおむ)ネ名称ナシ」となっているが、当地区では上駒沢村松倉内吉(手跡指南所)・三才村小池喜三太(漢和学舎)・三才村駒沢伝吉(念仏寺)の名がみられる。

 地区内の筆塚(三八基・師匠数四四人)、その他の資料による従来の研究では、天明(てんめい)年間(一七八一~八九)には寺子屋が開設されていた。大体は一代または二代の短期間のものであったが、三才の漢和学舎は寛政より明治まで八十余年間続き、門弟数数百人におよんでいる。

 幕末には各地区に三~五、地区では合計十二、三ヵ所の寺子屋が開設されていたものと考えられる。