二十山要右衛門(よううえもん)

391 ~ 392

三才の駒沢伝蔵の子。相撲道に入り木曽川伝吉といった。のちに相撲年寄に進み二十山要右衛門(五代目)となった。差添(さしぞえ)の要職に上り、浦風親方(小県出身)と協力し相撲会所運営の中心となった。また、信州の草相撲の育成にも尽力し、北信の相撲興行権も支配した。天保(てんぽう)七年(一八三六)七一歳で死亡。彼を慕う相撲関係者の手で建てられた供養塔が善光寺本堂の裏手にある。