柄沢義郎

392 ~ 392

上駒沢の名主柄沢吉左衛門の子。花岡馥斎(ふくさい)に漢籍を習ったのち、明治法律学校に学んだ。明治三十一年(一八九八)勝海舟、品川弥二郎らの後援で「忠清会」を設立し、佐久間象山の遺言を集めて刊行した。山県有朋(やまがたありとも)ら多くの名士の知遇を得たが、文豪徳富蘇峰(とくとみそほう)とはとくに親交が厚かった。昭和六年(一九三一)『佐久間象山公務日記』を刊行した。古松堂塾を開き子弟の教育にあたったが、教えを請うものが多く地域の風紀が自然に改まったという。晩年村民に要請されて村長、産業組合長をつとめた。昭和十年死亡。観音堂の境内に彰徳碑(しょうとくひ)が建っている。

 その他狩野派の刀根川錦嶺(きんれい)(明治初期)や南宋画の小池渾山(きざん)(明治~大正)などの画家、京阪から東京にも門弟がいた、義太夫の竹本松太夫(大正四年没)などがいる。