明治四年(一八七一)県が郷学校設立の布達をすると、地区の村々は第六二区内の一三ヵ村とともに津野村の妙笑寺、金箱村の信叟寺(しんそうじ)内の二ヵ所に郷学校を設立した。
明治五年に学制が公布されると、翌六年の八月に地区五ヵ村は上駒沢村法林寺を仮用して仮学校を創設した。翌七年六月、校舎を同村の真願寺に移転して開校式を挙げ、校名を聿脩(いっしゅう)学校と定め三才・富竹に支校を置いた(翌年支校はそれぞれ独立、三才学校・富竹学校となった)。聿脩学校は、明治十四年勧精(かんせい)学校(金箱・下駒沢)・上駒沢学校に分離して、古里地区は富竹・三才・勧精・上駒沢の四校となった。明治十八年教育令の改正で、四校が統合して金箱学校となり、三才に支校が置かれた。