一 終戦と戦後の民主化

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 日中および太平洋戦争で、地区は直接戦火はうけなかったが、五百余人の人びとが応召され、そのうち八八人が戦死(青少年義勇軍未帰還者四人を含む)という尊い犠牲を払った(日清戦争一人、日露戦争七人)。

 戦争が終わると、一時は八〇〇人を超えた疎開者もしだいに都市へ帰りはじめ、信叟寺(しんそうじ)(男子五五人)、浄専寺(女子四二人)に学童疎開していた豊島区立第四国民学校の児童も、昭和二十年(一九四五)十一月に父母のもとへ帰っていった。

 戦争は大きな傷跡を残したが、いっぽう地域の民主化を大きく進めた。敗戦の翌年の二月、連合軍の指令で公職追放がおこなわれ、当地区でも戦時中の村長二人をはじめ一六人が追放された。女性にも選挙権が与えられ、昭和二十二年四月には新しい村会議員が選出された。

 地方自治の進展とともに、地区に大きな変革をもたらしたものは、昭和二十一年からおこなわれた農地改革の断行である。農地委員会(地主三人・小作五人・自作農二人の代表で構成)が創設され、その決定で不在地主の土地、自小作地合わせて二町三反(二・三ヘクタール)以上の所有者の小作地、小作地七反(七アール)以上所有の地主の小作地、合計八八町歩(八八ヘクタール)の耕地が買いあげられ、自作農創設のために耕作者に売りわたされた(『古里村誌』)。小作料も金納となり、地主と小作の封建的関係が取りのぞかれて、明るい村づくりの契機となった。