昭和三十八年(一九六三)当時、狐狸(こり)がすむといわれた上駒沢の原地籍から徳間地籍にかけて長野工業高等専門学校が開校し、同四十一年県企業局によって駒沢新町(こまざわあらまち)団地が造成されると、廃止寸前だった三才停留所が信越線の電化にともない駅に昇格した。
JRで長野駅まで、長野電鉄で権堂駅まで、いずれも一〇分以内という交通の便から、昭和四十五年の駒沢第二団地の造成をはじめ住宅の建設が進み、古里地区の戸数、人口は急増した。昭和四十年から五十年までの一〇年のあいだに、地区全体で約二百五十パーセント、とくに上駒沢では六〇〇パーセントに達する急増ぶりであった。
この急激な増加のために、行政区域の変更が必要となり、昭和四十二年に駒沢新町(こまざわあらまち)団地(三二一戸・六五二人)が、同四十五年には同第二団地(二四〇戸・六四四人)が、同四十九年には三才区の信越線の西側の地域が西三才区(上駒沢と若槻地区の一部を含む一七七戸・五九五人)として独立の自治組織体となった。以後行政区は八区となり、大字も新たに西三才・大字徳間(駒沢第二団地)が加わり七区域となった。