昭和四十五年ごろから古里小学校の児童数は増えつづけ、同五十五年には三四学級(うち特殊学級一)児童数一三六一人の市内第一のマンモス校となり、三棟ものプレハブ校舎がつくられた。この過大規模の弊害を除去するため、同五十六年若槻の徳間地籍に徳間小学校が建設開校され、JR信越線の西側の西三才、新町団地・同第二団地の児童四百五十余名が徳間小学校へ転校した。
徳間小学校の開校
昭和四十五年ごろから古里小学校の児童数は増えつづけ、同五十五年には三四学級(うち特殊学級一)児童数一三六一人の市内第一のマンモス校となり、三棟ものプレハブ校舎がつくられた。この過大規模の弊害を除去するため、同五十六年若槻の徳間地籍に徳間小学校が建設開校され、JR信越線の西側の西三才、新町団地・同第二団地の児童四百五十余名が徳間小学校へ転校した。