行政区画の分合

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柳原地区は、近世のはじめ小島(こじま)・中俣(なかまた)・布野(ふの)・村山(むらやま)の四ヵ村であった。いずれも松代領に属している。村山村は元禄(げんろく)十五年(一七〇二)ごろから、領内にある同村名と区別するため、里村山村(さとむらやまむら)とされていた。廃藩置県以後の四ヵ村は、明治六年(一八七三)の戸籍区で五三区、同七年の大小区制では石渡(いしわた)・南堀(みなみぼり)・北堀(きたぼり)の各村とともに第二二大区五小区に属し、その扱い所は小島にあった。

 明治九年五月三十日、中俣村の飛び地が布野村の向こうにあるので、両村は合併し柳原村となった(『長野県町村合併誌』)。同十二年に大小区制が廃止され、各村に戸長役場を設け、民選戸長が置かれた。同十四年三月十二日里村山村は村名複雑のため誤解されやすいとして、再び村山村と改称した。明治十八年連合戸長役場が設置され、長沼地区と連合し「長沼大町ほか六ヵ町村」として、一つの行政区となった。戸長役場は長沼大町字土町四二番地の民家に置かれた。