長野市への編入合併

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昭和二十九年(一九五四)四月一日、町村合併促進法により、六十有余年つづいた柳原村は、長野市周辺の一〇ヵ村とともに長野市に編入合併した。この経緯をみると、同二十五年すでに古里・朝陽両村と中学校の組合立建設問題について協議が始められていた。

 昭和二十八年三月十六日、地方事務所長招集による市町村の適正規模研究会が設置され、古里村・柳原村・朝陽村三ヵ村の合併問題が取り上げられた。しかし、古里村は同年七月七日長野市から単独合併の申し込みをされて、その機運が高まってきた。柳原村でも、村内の各方面の代表者による合併問題協議会を発足させ、研究を始めた。同年十月八日、柳原村にも長野市議会合併対策委員会から合併の申し入れがあった。村議会はじめ各方面ごとに村民の意見を集約した。同年十二月二十二日、朝陽村との協議会を開いて長野市との合併の意向を説明し、これによって朝陽村との組合立中学校問題と合併問題を打ち切ることにした。

 昭和二十九年一月十三日、柳原村は長野市に対し、各集落を結ぶ主要幹線道路の完成や上水道の敷設を要望し、同月二十一日、柳原村議会は、全会一致で長野市との合併を議決した。三月三十日、解村式と合併祝賀会も開かれ、四月一日から村名を廃し長野市柳原地区(戸数四〇六、人口二三六九)と称し、村役場は長野市柳原支所となった。柳原中学校の生徒は、長野市立東部中学校に転入、同三十三年四月一日には長沼地区に長野市東北中学校が開校され、長沼・古里・柳原地区の生徒が通学するようになった。


写真1 柳原村役場 昭和29年4月1日「長野市柳原支所」となる