明治二十二年(一八八九)小島(こじま)村・柳原(やなぎはら)村・村山(むらやま)村の合併した村名「柳原」は、「区域中最(もっとも)古来共ニ唱フル所ノ庄名」によって命名したという。おそらく同九年中俣(なかまた)村と布野(ふの)村の合併の村名「柳原」も同じ理由であろう。
村名「柳原」は荘園名として確かな資料はないが荘号として使われていた。初見は、慶長(けいちょう)十一年(一六〇六)水内(みのち)郡荒瀬原(あらせばら)・舟竹村(ふなだけむら)(現信濃町古間)の名寄帳にみられる。次いで同十八年五月十一日、本願寺から下付された勝善寺(しょうぜんじ)所蔵の掛軸「教如(きょうにょ)上人像」の裏書に、「信州水内郡柳原庄勝善寺住(じゅう)(什)物也(ぶつなり)」とある。勝善寺は柳原中俣にあった寺である。また、寛政(かんせい)四年(一七九二)「御領内村高枝村書上帳」の荘号郷号里号書上げでは荘号に柳原をつけている村が多い。小島村・中俣村・布野村・里村山村も共通して「柳原庄布野郷駒沢(こまざわ)里」とされている。明治初めの『町村誌』には善光寺平とその周辺の村々の由来に、「古くは柳原庄に属し云々」としているところがある。村名「柳原」は、古く江戸時代広く使われていた荘号である。それにあわせこの地は低湿地のため、柳の木の多いことから重ねあわせ命名したのであろう。