四 戸口の移り変わり

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 戸口は、明治期はじめから第二次世界大戦前までは、わずかに増えたにすぎない。戦後は、疎開者や引揚者の定住やこどもを分家に出すことで増加してきた。昭和三十四年(一九五九)二月、柳原駅前の水田地に市営住宅が建設され、国道の開通にともない交通の便のよさと、排水機場(はいすいきじょう)の設置によって水害の被害が少なくなったことから、昭和四十年代には住宅地として注目されるようになった。昭和四十九年には国道沿いに柳原県営住宅、つづいて雇用促進住宅などの高層住宅が建設された。

 昭和五十年代には一〇〇〇戸、四〇〇〇人にふくれ、柳原小学校は児童数が増えて校舎が狭くなり、五十二年四月一日、中俣(なかまた)から小島に新築移転した。また、中俣土地区画整理組合は、柳原駅北側の二四・二ヘクタールの耕地を十余年の歳月をかけて、土地区画事業を進め平成四年(一九九二)九月完工し、計画的な市街地づくりを進めている。

 平成七年十月一日、柳原地区は二三九八戸、七三八〇人。ここ五〇年間に戸数は六倍になった。そのうちの七割近くは小島・中俣に居住している(表1)。行政区は小島・中俣・布野・村山・県住の五区。その下に常会がおかれ、隣組がある。小島区八常会、六四隣組、中俣区一〇常会八二隣組、布野区五常会二四隣組、村山区四常会一六隣組、県住区四常会三四隣組となっている。


表1 戸口の推移