二 条里的遺構

410 ~ 411

 長野市街地の東部、三輪・古牧・吉田・朝陽地区では条里的遺跡が確認されている。柳原地区もその延長上にあって、柳原駅東側の一帯が注目されていた。ここは比較的に整然とした長方形の水田が並んでいたが、線路をはさんでほとんど宅地化され、水田は見られなくなった。

 ここの地籍名は、条里制に関係の深い東一丁田(いっちょうだ)・西一丁田とか、上五反田(ごたんだ)・中五反田・下五反田などがある。条里制の基準区画は六〇間(一〇九メートル)四方を「一丁田」という。その半分を「五反田」といって、条里的遺構地に共通した地名である。なお上﨤町(そりまち)・下﨤町という地名も残っている。明治二十五年(一八九二)二月作成の土地地図を見ると、ここは比較的正方形に区画され、そのなかをほぼ縦横一〇〇メートルと一〇メートルの短冊形の水田が並んでいる。また、「長野市条里的地割図」(赤羽範哉作図)でも、ここ中俣(なかまた)と布野(ふの)の一部は条理的地割りであるとされている。