三 郷と荘園

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 平安時代の『和名抄(わみょうしょう)』に出てくる、「古野郷」は、柳原布野(ふの)を中心とした郷といわれている。流布本(るふぼん)では「布無奈(ふむな)」と読めるが一般には「ふるの」といっている。『諏訪御符礼之古書(みふれのこしょ)』によれば、長禄(ちょうろく)二年(一四五八)の条に「流鏑馬(やぶさめ) 布野須田刑部少輔(ぎょうぶのしょう)為国」、寛正(かんしょう)五年(一四六四)には「右頭(うとう) 古野三郎左衛門義盛」、応仁(おうにん)二年(一四六八)「布野代官中島佐渡守長吉」、文明(ぶんめい)六年(一四七四)には「宮頭 古野代官佐渡守長能」と古野と布野が交じりあっている。『和名抄』の古野郷の名残が布野となったとされている。五〇戸、一里を郷とした古野郷のまわりには、西に尾張部、北に太田郷、東は千曲川をはさんで中島郷や大島郷が存在したという。中俣(なかまた)は中島郷にあたるともいわれているが確証はない。長享(ちょうきょう)二年(一四八八)七月、諏訪(すわ)神社下社の「春秋之宮造宮之次第」に瑞籬(みずがき)三三間(六〇メートル)のうち「弐間 中俣」とある。


写真2 吉野神社 布野区の産土神(うぶすながみ)、吉野郷の名残か

 『吾妻鏡(あずまかがみ)』の文治(ぶんじ)二年(一一八六)にみえる信濃の荘園のうち「河居・馬島・村山・吉野」は善光寺領である。地方寺院の所領は渡し場に立地することがあるといわれ、馬島は真島、河居は川合を指し、犀(さい)川・千曲川の川筋にある。吉野は古野の誤記とされ、村山・古野は千曲川沿いの渡し場を含む地にある善光寺領の荘園である。治承(じしょう)四年(一一八〇)市原で笠原頼直と戦った村山義直は村山の荘司(しょうじ)ではないかといわれている。

 小島は嘉禄(かろく)三年(一二二七)十月十日、鎌倉幕府が島津忠時にあてた将軍家下文(くだしぶみ)に、「信濃国太田庄内小島・神代(かじろ)・石村南・津乃(つの)地頭已上(いじょう)四箇郷地頭職事」とあり、太田荘に属していた。また、嘉暦(かりゃく)四年(一三二九)「諏訪上宮頭役結番帳(けちばんちょう)」では「小島付大隅孫三郎入道知行分」とか「小島郷高梨知行」ともあって、太田荘の島津氏の知行地と高井郡高梨氏の知行地とが混在していたらしい。さらにくだって天正(てんしょう)六年(一五七八)二月「上諏訪大宮同前宮造宮帳」では、外垣二〇間(三六メートル)造営の東条(ひがしじょう)荘に属し五貫文拠出している。