中俣(なかまた)の堀組にある。『町村誌』によれば、本郭は東西三二間余、南北五三間。その東に接する二の丸郭は東西二七間余、南北五〇間。北西に連続した三の丸郭は東西三八間余、南北三三間ほどである。そのまわりには堀をめぐらし、さらにその外側に用水堰(せぎ)が堀のようにめぐっている。
伝承によれば、中俣氏が井上左馬介光頼と舎弟遠江守(しゃていとおとうみのかみ)に従って、応永(おうえい)七年(一四〇〇)大塔合戦(おうとうがっせん)に出陣したことから井上氏の築城といわれている。また、一説には古野氏の館跡ともいわれ、その跡へ勝善(しょうぜん)寺が移った二重遺構であるという。現在はほとんど宅地化され、本郭に稲荷社が祭られ、三の郭には城橋(しろはし)があったことから「しろはし」と刻んだ碑がある。また、地名には馬出し・馬場(ばば)が残っている。