現在、柳原地区には寺院が一つもないが、鎌倉時代から江戸時代のはじめには、在地期間の長短はあるが勝善寺(しょうぜんじ)・勝楽寺・長命寺・円光寺・正安(しょうあん)寺・光明寺が建立されていた。
勝善寺は正治(しょうじ)元年(一一九九)から文禄(ぶんろく)四年(一五九五)中俣(なかまた)城内に位置していた。この間、八世順西(じゅんさい)は石山合戦(一五七〇~八〇)で織田信長と戦い、石山本願寺へ軍資金と兵糧を送っている。また、了順(顕順)は参陣して戦死した。天正十年(一五八二)森長可の制札を受け、また秀吉に陣中見舞いを送るなど勢力的な寺院である。中俣から高井郡八丁(現須坂市)へ、さらに須坂村青木(現須坂市)に移った。勝楽寺は康永(こうえい)二年(一三四三)五世湛敦(たんあつ)のとき平出(ひらいで)(現牟礼村)から村山に移った。石山合戦では石山本願寺に兵糧を送っている。慶長(けいちょう)十一年(一六〇六)一四世照念(しょうねん)のとき千曲川の洪水のため、現在の福島(ふくじま)(現須坂市)に移ったという。
長命寺は永正(えいしょう)十六年(一五一九)七世信貞(のぶさだ)のとき駒沢(こまざわ)(現長野市古里)から布野(ふの)に移り、元禄(げんろく)十三年(一七〇〇)一三世霊勝のとき現在の南堀(みなみぼり)(現長野市朝陽)に移った。布野には地名大門が残っている。円光寺は天文(てんぶん)五年(一五三六)布野の中の島に創建、同十九年八月千曲川洪水のため堂宇流失、高井郡小山村(現須坂市)に移り、さらに現在地南原(同)に移った。正安寺は正安(しょうあん)二年(一三〇〇)上州藤岡(ふじおか)に創建、のち中俣に移ったという。その年月、場所とも不明。大永(だいえい)元年(一五二一)現在地の荒井原(現高山村)に移ったという。小島にあった光明寺は享保(きょうほう)九年(一七二四)宮沢武右衛門の建立によるが、明治六年(一八七三)廃寺となった。