村のしくみ

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近世の村々は、松代藩の蔵入地(くらいりち)と地頭(土地を給される家臣)の知行地(ちぎょうち)が混在していた。寛文(かんぶん)元年(一六六一)に地頭は小島村一二、中俣(なかまた)村七、布野(ふの)村六、里村山(さとむらやま)村五、あわせて三〇人。知行地高の合計は一六七八石余、村高の約七十四・四パーセントを占めている。地頭は村の有力農民を蔵元(くらもと)に任じ知行地の収納をさせた。村政は代官の支配に属する村方三役がおこなう。下部組織に五人組があった。万延(まんえん)二年(一八六一)中俣村(八二戸)に七組の五人組があった。組頭を中心に本百姓と判下百姓が連帯責任をもって百姓を営んでいた。

 本百姓には、村役につける大前とつけない小前があった。近世中ごろから小前の力も強くなって、村役人の補助役として頭立(かしらだち)が置かれると、小前百姓から頭立になるものもあった。明和(めいわ)三年(一七六六)布野村の頭立は、村方三役に対し、松代人足・御伝馬人足・役人泊りの湯番は六四文、用水人足・舟渡人足は四八文などと人足賃銭の定めを申し立てている。また、布野には本陣中野家がある。中世高井郡中野郷の中野氏の末裔(まつえい)という。中野治兵衛は善光寺領の地方役(手代)をつとめている。